優しさについての考察

優しさについての考察。

 

僕は、よく“優しい”と形容される。

そう、何を隠そう、僕は優しいのだ。それはそれは優しい訳で、見るからに優しく、関わると更に優しさを感じ、深く関われば関わるだけ優しい、底なし優しさオバケなのだ。

と、変なあだ名がついたところで、そんな優しさオバケの正体を探ってみれば、その成分には多分に「気弱」が混じっている。

そう、優しさオバケの正体は、気弱なのだ。

思った事を言ったり、ワガママを言うのが苦手だったり、相手の気持ちに反対するのが苦手で、自分の気持ちより相手を尊重する事が癖づいている。その結果形容してもらえるのが“優しい”なのだ。

それができるのはとても良い事でもあると思うのだが、それは一歩間違えば不健全な状態になる。

自分の意思をハッキリ言う。そんな単純な事が“優しい”が癖づいていると、できなかったりする。周りに何と言われようと貫く。そんな一番大事な事を二の次にして、“優しい”を選ぶ。

その根本には、嫌われたくないがあるのかも。強烈な、嫌われる事への恐怖。誰にも嫌われたくないと、自分の意思を、素直な気持ちを抑え込んで“優しく”していく。

そしてその結果、不健全になった心は自分を愛せなくなる。

“優しさ”は行き過ぎると、自分に優しくない。

そして更にこれまでの人生を振り返った時に気づかされるのは、「本当に心に残っている優しさは、厳しさだった」という事。

もちろん、純粋な優しさも沢山心に残っているが、それと同じくらい、貰った厳しさに感謝している。その成分は“優しさ”でできていたと、時間が経つほどにわかる。

と、とっ散らかりながら色々“優しさ”について考察してきたが、結局優しさとは何なんだろうか。良いものなのだろうか、そんな良いものではないのだろうか。わからないし、捉え方次第だし、その都度次第だ。

ただ僕は今、そんな癖づいている優しさから、貫く強さを身に付けたいと思っている。

何が正解で、どうすれば上手くいくのか、この道の先は明るいのか、みんなそんな中一人で歩いている。不安になる事ばかり。

それでも、自分の心に素直に、信じた道を貫く。周りの目線を気にして簡単に曲げない、引かない。その先にあると信じる未来に向けて、自分を貫く。それが例え思い描いていた結果と違くても、間違いなんて無い。そこまで行って得た結果が、大きな財産だ。

“優しさ”に逃げず“貫く”

果たして僕に、それはできるか。

優しさとは、強さ、かな?

今のところの僕の、優しさの考察結果。