人に求める我儘な愛

成長を願うとき、必ずたどり着く“性格と向き合う”という事。

これまで色んな考え方をしてきて、その都度答えは変わっているのだけど(答えは何度だって変わって良いと思ってる)、結局は根本の部分は変わらないし、性格を変えずにいられるかが大切と現時点での暫定結論。

ただ一つ、もっと表面上の、生きてきた中で学んだ大切としていた事で、でも意識的に変えた考え方といえば、人への求め方だ。

僕は、どうやら大分我儘なようで、大切な人と思えば思うほど、妥協を許さない。向上から逃げてるのを見つけるたびに、「おいおいおい」ととっ捕まえて話をしてきた。辞めて欲しくないからだ。一緒に上に行きたいからだ。

でもそれに関しては、最近「結局本人次第」という捉え方になった。

向上心は、こちらが求めたところで、そうそう相手を変える事はできない。できるのはそのキッカケを作る事くらい。だから、結局は本人次第。

辞める奴は辞めるし、辞めない奴はどれだけ「辞めときましょうよ」と言っても辞めない。(例・モンキーチョップの塚原さん)

そして辞めたから負けではないし、続けたから勝ちではない。どちらにしたって勇気が必要で、何よりどこまでいったってその人の人生だ。

そこに踏み込んでいた僕は、傲慢だったとも思うし、しかし我ながら愛の塊だったとも思う。愛はめんどくさいものだ。

だから人へと求め続けたその我儘な愛は、間違ってたとも思わないのだけど、その愛を持つには、僕はまだ未熟過ぎるという考えに至ったのが変化の決定打。

今の僕では、届かない言葉がある。持たせきれない説得力を痛感する。

“何を言うか”にこだわって来たけど、今までより“誰が言うか”にもっと比重を高め、拘らないとダメだ。今は持てるエネルギーを人に向けず自己愛に向けるべき。と、そんな変化をこのところしている。

その方が長い目で見た時に優しくなれるから。守る為には、自分が強くなる事から逃げる訳にはいかない。

 

僕は今、近場の優しいからの脱皮をしたいんだな、と、書いていて整理ができた。なるほどね。